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 下記の記事は、近畿双松会(松江中学、松江高校、松江北高校の近畿同窓会)の“創立55周年記念近畿双松会報”に掲載されていたものを転載したものです。

 
『国立民族学博物館と実家』 


佐和田 丸 (高10・昭34卒)
 


       
  55周年記念号の会報



  中国地方の“へそ”ともいうべき、高原に、私の故郷、旧頓原町がある。国立公園三瓶山と、島根県民の森・大万木山、大国の命ゆかりの琴引山に抱かれた町といえば分かりやすいかもしれない。平成17年(2005)年1月1日、となりの旧赤来町と合併して飯南町(飯石郡の南の意)となった。頓の字は珍しく、北海道以外では死語になりつつあり、時おり、道頓堀界隈を歩くとなんとなく親しみをおぼえる。余談になるが、長らく出身者の会“関西頓原会”の会長をつとめ、町長から表彰をうける栄に浴した。
 その頓原で、親父は、「かどや商店」の商号で、しょうゆ、みそ、アミノ酸の製造販売を営んでいた。販路は、雲南、広島県備北地方であった。今と違い当時、調味料といえば“しょうゆ”“みそ”ぐらいで、面白いように儲かったらしい。
 文字通り、手前味噌になって口幅ったいが、あの当時、アミノ酸の旨み効能に気付き、その製造に手を染めていたことは、注目に値する。20世紀はビタミンの時代、21世紀はアミノ酸の時代とは、とある調味料最大手のA社元社長の受け売りだが、いま盛んにアミノ酸の効用がマスコミでとりあげられている。数十年前に高度の専門教育を受けたわけでもなく、先端情報を入手しがたい山間の地で、アミノ酸の効用に着目し、大半独学で少し大げさになるが、研究・醸造していたことは、父にもすこしは偉いところがあったかなと認識を新たにし、ちょっぴり尊敬の念を禁じえないでいる。
 父が亡きあとは兄が継いでいたが、ある日、醤油瓶をつめた箱をかかえあげようとして、へたへたとそのまま座り込んで意識を失ってしまった。あわてて医者を呼び手当てをしたが、再び蘇ることはなかった。心不全であった。そのあと兄弟だれも継ぐものがなく、かどや商店は結局廃業することになった。
 

       国立民族学博物館(吹田市)


       【カドサ醤油のレッテル説明】
カドは屋号“かどや”のカド。サは、家名“佐和田家”のサに由来 します。                       
上段 頭のレッテル 昔はコルク栓で美観のため上から頭レッテルを貼りました。現在は、コルクから金属製に変わり使用されなく なりました。        
中段 肩レッテル ビンの肩に貼るレッテル。      
  現在も使用されています。                
下段 腹レッテル ビンの腹に貼るレッテル。      
  現在も使用されています
                



 
 何とか民俗資料として
     保存できないか


 しょうゆ、みそ等醸造用具は、多種多様、数多くあり、廃棄処分するにはもったいない、それなりの文化遺産である。なんとか民俗資料として保存できないか、と考えた。
 できれば地元へと、町へ保存をお願いした。町は施設・費用の面で無理なので、県へお願いしてみると代わりに頼んでくれた。県からは県立の民俗資料館がなく、担当の学芸員もいないことを理由によい回答をもらえなかった。
 町や県に断られたらあとは国しかない。やむなく、小生の住んでいる大阪にある国立民族学博物館(略称民博、平成164月、法人化により、大学共同利用機関法人、人間文化研究機構が正式名称となった)に依頼したところ、たまたま資料がなかったのか、ぜひ、当館で研究・展示用として一式一括保存させてほしいと、逆指名ならぬ逆依頼された。怪我の功名である。なんでもダメモトでやってみるものだ。 受け入れ時、国際館の民博よりも、日本専門館の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市、略称・歴博)に入れたほうが、全館日本ゾーンでスペースが広く、早くかつたくさん展示されるだろう、ということで逡巡したが、島根から地理的に近い、兄弟も関西に多いことなどもあって、ここ民博に入れてもらうことになった。なお、民博と歴博とは姉妹館であり、重複用具については、スペースの関係上佐倉歴博に回し、あちらでも保存・展示して貰うことも考えたいとのことであった。昭和62年(1987)1月25日のことである。


 収蔵庫は地下へ
    拡張されていく


ここだけの内緒の話であるが、町や県に断られてよかったとは、後日の兄弟の述懐である。一括一式保存という話にはならなかったであろう。話がそれるが、民俗関係三番手として、アジア専門館の九州国立博物館が福岡県太宰府に、2005年秋に開館した。
 

加登家の前掛け



加登家の醤油袋



























※上記、飯南町の地図をクリックすると
拡大でご覧になれます。



飯南町のhpは
こちら
 さて民博から機会があれば、兄弟さんに保管状態をお見せしたいとの申し出を受けていた。
 2003年秋、たまたま身内の結婚式で兄弟が大阪に集まる機会があり、いいチャンスと見学させてもらった。
 まだ、展示前ということですべて収蔵庫に分散して保存されていた。同館の拡張は、地上は本館に加えて新館のみであるが、収蔵品が年々増加しているのであろう。一階の収蔵庫が地下へ地下へと増築されているのには驚いた。3,4階のビルがそのまますっぽりはいりそうな巨大な収蔵庫が、地下4,5階と拡張されているのである。今後も拡張されつづけるであろう。地下利用ならだれからも苦情をいわれなくてすむ。収蔵庫だけでなく、展示場も地下にどんどん拡張していってよいのではないか。ちなみに見学した佐倉歴博では地上の展示場に加えて、地下にも展示場と収蔵庫が設けられていた。

 20石樽の塩抜き

 館員の案内で私ども兄弟は、久しぶりに懐かしい用具に再会した。実に16年ぶりの再会である。展示に備えて、きれいに塩抜きされ保存されているのには、感動的で感謝の言葉以外にない。ことに、しょうゆの仕込みで赤茶けていた2個の20石樽(直径2m、高さ2.2m)はすっかり色白となっていたのには驚いた。まるで、出雲そばが信州そばに華麗に変身したかのようである。この塩抜きは、奈良市の元興寺(がんごうじ)文化財研究所に依頼して塩抜きをしてもらったと館員の説明である。
  後日、正倉院展を家内と観に行ったとき、ついでに立ち寄りお礼参りをしてきた。なお同所は、全国の文化財修理・保存を引き受ける最大級の施設とのことである。
 思えば仕込み蔵の端まで、ころで移動し、屋根に直径約3mの穴をあけ、クレーン車で吊り上げて、トラックにのせここ民博へ運んできた。兄弟は樽に繰り返しさわり、早速、この樽をバックに記念写真をとった。また、工場に付着する麹室の移転は、半ば建物自体を壊しながらに大規模な作業となった。
 同館では、いずれこれらの用具を並べ日本人になじみの深い、しょうゆ・みそのできるまでのコーナーをつくり、広く内外のひとびとの閲覧に供したいとの趣である。うれしくありがたいことである。早期に実現するのを祈るや切。
  それにしても生家の用具が、兄弟のあとを追って大阪にくるとは夢想だにしなかった。20石樽2本ほか、大小500点余、日通松江支店の6トントラック2台が、頓原・吹田を2往復した。今、枚方のマンションに住んでいるが、眼前には北摂の山並みを背後に、高槻・茨木・吹田の街並みが広がっている。時おり、新幹線が白い糸をひくように行き来するのがみえる。加登家の用具がその一角の指呼の間にあるのは、なんとなく心強くうれしいことで、元気をもらえるような思いである。
  

 広島県立歴史民俗
    資料館も収集


 民博が一式収集したあともかなり用具が残る。広島県三次市小田幸町の“広島県立歴史民俗資料館”にも打診してみた。広島県立であるが、中国地方一帯の民俗資料を収集しているとのこと。その心意気やよし。民博が収集したあとでよろしいから、収集させてもらえないか、との返事があった。頓原から車で40分と近く、地元の方にもみてもらえる機会もあるかもしれない。私どもは喜んで応じた。ここでもかなりの量が保存されることになった。トラック台、約200点。このお礼の意味もあり、近畿島根県人会に加えて近畿広島県人会にも入会させて貰っている。島根県には県立の民俗資料館はなく、小規模な市町村立がいくつかあるのみである。残念なことである。当面は空き教室や空き家で保存し、将来学校統合で生じるであろう空き校舎を有効利用して資料館をつくる方法も考えてもよいかもしれない。
  その他、出身地の“飯南町立民俗資料館”“キッコーマン醤油資料館(千葉県野田市)”“ヒガシマルうすくち醤油資料館(兵庫県竜野市)”世界中の民俗資料を収集している“天理参考館(奈良県天理市)”にもそれぞれ記念として、数点づつおさめさせて貰い、各館からそれだけ充実しますと感謝の言葉をいただいた。
 在職中、出張で上京したとき“キッコーマン資料館”をたずねた。寄贈品の一部がすでに展示されていた。よろこびがこみあがるのを覚えた。展示品をバックに記念写真をとらせていただいた。館長の話では、同じ用具でも東日本と西日本では微妙に違い、当館は場所柄、西日本の資料がすくないので、西日本からの資料寄贈はたいそうありがたいと感謝された。鉄筋の醤油工場の一角に、場違いな和風の建物があった。あれは何ですか、とたずねると、皇室向けの専用醸造場とのことであった。例の皇室御用達である。宮内庁職員も含むかどうかは聞きそびれた。
 平成25年春、家内と万博公園へ花見にでかけた。ついでにと、近くの民博へ寄ってみた。東アジア(日本の文化)ゾーンに、寄贈品の一部が展示されていた。ここでも展示がはじまったらしい。喜ばしいことである。

      おわりに・・・
 
 飯南町は、松江道の開通で松江・飯南・広島の直行バスがなくなり、兄弟の墓参に不便ということで、墓を頓原から、松江、大阪、京都(西大谷)等へ分骨移転した。親父らはそこで永久の眠りについている。
 みずから手塩にかけ、考案し自分の分身ともいうべき醸造用具が、これからは日本を代表する博物館やしょうゆメーカーの資料館等で、展示・研究用として多くの人々の目にとまり、役立っていくことはたいそう名誉なことであり、望外の幸せなことといってよい。 親父らも近くにあるなじみの用具を懐かしみ、以って瞑すべしと思いながら眠っているのではなかろうか。

<島根県PR大使・遣島使、近畿島根県人会役員、松江観光大使、近畿飯南会顧問、近畿広島県人会会員、松江市・佐和田司法書士事務所顧問、e-mail・malu122@nifty.com>